恵みの風

“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”(イエス・キリスト) 兵庫県三田市 北摂恵みバプテスト教会よりお届けします。

2013年4月27日土曜日

教えることの大切さ

 関西学院大学で以前就職部長をされていた、山野上素充さんが次のように書いておられました。
 電車の中で、塾帰りの小学生がアメを食べ、その包み紙を床に捨てているのを目にした。私が、「ぼく、今捨てた紙を拾いなさい」と言って拾わせたところ、これを見ていた友人は「そんなに言わなくても大きくなったら分かりますよ。」と私の行動にクレームをつけた。私は「子どもの時に教えておかないと大きくなってもわからないよ」と言ったが、ちょうど動き出した電車がその場の話題を変えてしまった。
 数日後、この友人と駅で出会った。彼はタバコを吸っていたが、電車が来ると、吸い殻をレールに投げ捨てて電車に乗った。おわかりの通り、私の発した言葉は「大きくなっても、注意されないとわからない人がいるのではないか」であった。彼は一本取られてしまった訳である。子どものしつけは親だけのものではなく、社会全体のものである。
 聖書の中に、子どもたちにしっかりと教えるべき事がかかれています。二つにまとめるなら、『神を信じ愛すること』『自分を愛するように他の人を愛すること』です。私たちは教えられなければわかりません。注意を受けなければ気づかないことがあります。謙虚に自ら学び、そして伝える責任があります。山野上さんは電車の中で走り回る子どもたちを見て、「頭は一流、心は三流」の大人の再生産ではないかと心配する、と最後にかかれていました。

2013年4月24日水曜日

いのちの糧は?

 ディフォーの「ロビンソン漂流記」は有名は小説家ですが、ロビンソン・クルーソーにはモデルとなる人物がいました。一人のスコットランド人、アレクサンダー・セルカークという男です。彼は今から300年前、南太平洋の無人島で約4年半もの間生き延び、救出されました。ロンドンでその体験談を聞いた一人がディフォーでした。そして小説にしました。その中で、ディフォーは主人公ロビンソンに次のように言わせています。「ここ無人島では、私に使えるだけの量のものしか価値がなかった。私が食べていくのに十分なだけの食糧とその他の需要を満たすための材料以外は、私にとって意味を持たなかった。
私に食べきれる以上の肉が手に入れば、犬か野獣に食わせるほかなかった。同様に、私が切り倒した木は、地面に朽ちかけていき、たきぎにしか使えず、たきぎがいるのは、料理をするときだけだった。一口に言えば、この世にあるどんなものでも、われわれがそれを使える範囲でした、われわれにとって価値がないことを知った」と。
 ディフォーが言いたかったことは、「私たちにとって、生きていく上で必要なものはそう多くない」ということです。私たちが求めているのは、もしかしたら必要ないものの周りにある装飾品かもしれません。私たちにとって最も必要なものといえば、いのちですね。いのちとは、心も含め全人的な意味です。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』とキリストは言われました。私たちの「いのち」の糧こそ、神のことば聖書なのです。