tag:blogger.com,1999:blog-3426389321763650832024-03-05T13:42:59.480+09:00恵みの風“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”(イエス・キリスト)
兵庫県三田市 北摂恵みバプテスト教会よりお届けします。masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.comBlogger317125tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-13384043242075569382016-05-12T17:32:00.001+09:002016-05-12T17:32:46.737+09:00あなたを知っておられる神 あるご老人は、その町にある小さなお医者さんへ行くのが好きだそうです。そこの看護婦さんが自分を呼ぶ時に「姓名」で呼んでくれるからだそうです。いつもはどこでも「おばあちゃん」と呼ばれます。「おばあちゃん」と呼ばれても不満はないのですが、姓名できちんとと呼ばれると「本当の自分」を呼んでもらっているようで好きだそうです。私の場合は、夫であり、父であり、牧師であり、おっちゃんですからいろんな呼び方で呼ばれます。しかし、これら全てを含んでいるのはやはり「保田益民」です。<br />
聖書のイザヤ書に、『この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名を持って呼ばれる』とあります。神は私たちの名を呼ばれるお方です。私たち一人ひとり漏れることなく知っておられるのです。またヨハネの福音書には、『神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』とあります。個人、一人ひとりを愛しておられる神さまです。そして、私たちの髪の毛の数さえご存知なのです。さらに、神が持っておられる『いのちの書』に名前を記してくださるとあります。<br />
すなわち神は、私たちを断片的にではなく、一面だけではなく、すべてを知ってくださっているということです。機械的ではなく、愛と恵みを持って私たちを呼んでくださる方がおられるのです。これは、私たちにとって慰めであり励ましではないでしょうか。<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-12697102256787200982016-04-26T11:09:00.001+09:002016-04-26T11:09:01.480+09:00★★★ 母の日感謝礼拝のご案内 ★★★<br />
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日頃のお母様方の労苦に感謝し、私たちの教会では母の日感謝礼拝を行います。<br />
新緑の美しいこの時期、自然に囲まれた教会で、ゆったりとした日曜日をお過ごし下さい。<br />
心よりお待ちしております。<br />
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【日時】 2016年5月8日(日) 午前10時45分より<br />
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【場所】 北摂恵みバプテスト教会<br />
三田市三輪1275-25 ( ☎︎ 079-564-217)<br />
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【内容】 *母の日メッセージ<br />
*聖歌隊讃美<br />
*母の日プレゼント<br />
*お茶菓子<br />
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託児(ナースリー)がございます。<br />
駐車場もございます。<br />
10時30分に JR三田駅北側ロータリーに送迎車が行きます。<br />
ご利用ください。<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-32696804978853012662016-04-18T17:31:00.001+09:002016-04-18T17:31:52.497+09:00新らしい発想 ある大学で、キャンパスにきれいに手入れされている緑鮮やかな芝生が植えられていました。しかし問題が一つありました。それは、その芝生が教室のある校舎と食堂のある<br />
建物との間に植えられていたということです。何が問題なのでしょうか。それは、食堂への道を通るよりも、芝生の上を通るな断然近道だということです。言うまでもなく、学生たちはその芝生の上を歩きます。注意してもなかなか聞きません。「芝生立ち入り禁止」「芝生歩行禁止」などの看板も立ててました。芝生の回りを柵で囲んでみました。しかし、学生たちには何の意味もないことでした。看板を無視し、柵を跳び越え芝生を通ります。<br />
係の者が思いあまって学長に相談しました。すると学長は、「それは簡単なことだ。芝生の中に道を作ったらすむことだよ。」と答えました。さっそく、きれいな道を芝生の中につくりました。すぐに、看板も柵も必要なくなり、係の者のストレスも無くなりました。<br />
このことから、「発想の転換の大切さ」を学ぶことができます。「美しい芝生を守るために、学生を芝生に入れない方法は?」から、「芝生を美しく保ちながら芝生広場を通らせるには?」に発想を変えたとき、問題は見事に解決しました。私たちも、問題に対して一方向からではなく、いろんな角度から対処法を考えたいですね。また、学生を変えるのは難しいが、芝生に道を造るのはやりやすいことでした。聖書は、私たちに神様の発想を教えてくれます。私たちには無い、しかも新らしい命の発想です。masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-59014615019734724152016-04-14T15:27:00.001+09:002016-04-14T15:27:12.917+09:00考え方に基準を 新聞というと、毎日あたりまえに家に届き、あたりまえに読むものというものでした。実際、日本が世界で最も高い新聞購読率を誇り、日本中の警察署の数16000に対して、21000の新聞販売店が存在しています。しかし最近、新しい世代により新聞に関する考え方の方向が変化し始めています。その原因はインターネネットです。<br />
インターネットの拡がりと共に、特に若い人々は「インターネットで全ての最新のニュースを知ることができるので、これ以上新聞を読む理由がない」と言います。そして、「インターネット上では、異なるソース(出所)からのたくさんの記事を読むことができるし、その記事を比較することができる。もし、わからないことがあれば、検索して見つけることができる。たった一つの新聞だけで、あるいはジャーナリストの見解を信じるのはむしろ危険であり、誤った記事に騙される可能性がいつもある」とさえ言っています。時代の流れの中で、どのメディアの役目も変化して行くのは、むしろ当然と言えるかもしれません。<br />
しかし今は、情報の氾濫の時代です。間違った、あるいは迷わせる情報によって誤った方向に導かれないよう注意しなければなりません。確かな知識とメディアについての理解を保たなければならないし、必要な時には批判的であらねばなりません。そのためには、一つの基準を持つことが重要です。あらゆる時代を通して、人々の考え方の土台となっている聖書こそ、その基準になり得るものです。masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-57212892842491378822016-03-29T17:35:00.003+09:002016-04-14T15:27:43.682+09:00笑顔パワー 聖書の箴言に、『一切れの乾いたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家にまさる』とあります。平和とは「関係が良い」ことを言います。人と人とを結ぶ帯は愛だと聖書は教えていますが、その愛の具体的表現の一つ、そして最も簡単に誰にでもできるものが「笑顔」ではないでしょうか。<br />
笑顔に関して色んなことが言われています。アメリカの社会教育家マーデン博士は、「世の中で最高のケチは、何と言っても、にこやかな笑顔と挨拶を出し惜しむことだ。ちょっと目元の筋肉を動かし、ほんの一言二言話すだけで、人に幸福を与えることができるのに、それさいしない人がいる」と言いました。イギリスのシドニー•スミス卿は次のように言いました。「微笑むで人を喜ばせよ。一日一人を喜ばせるという最低限のことでも、10年つづけれ、3650人に喜こびを与えたことになる」と。また、あるデバートの事務所には、「笑いの哲学。それは元手がかからない、利益は計り知れない。与えても減らず、与えられた人は和む。富豪も笑顔なしには豊かさが生まれない。貧しくて笑顔があれば豊かになる。笑顔は、家庭に幸せを、商売に善意を運ぶ。そして、笑顔は友情の合言葉。疲れた人には心の安らぎ、失意の人には光明、悲しむ人には太陽」と書かれています。<br />
私たちも、主キリストに見習い笑顔を持って互いに平和を生み出していきたいですね。主は、きっと私たちの笑顔をお用いくださることでしょう。masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-16687570597178652452016-03-23T11:30:00.000+09:002016-04-14T15:27:35.254+09:00休息は活力 ガブリエル・マルセルは「マルセルにおける人間の研究」という著書の中で、「あらゆる動物のうちで、考える力を持っているのは人間だけである。ところが、あらゆる動物のうちで考える暇を持たないのも人間だけである」と警告しています。<br />
私たちの日々の生活も「暇」のない生活ではないでしょうか。子どもから大人まで、いろいろなスケジュールに支配され、ちょっと残った時間もテレビなどに取り上げされてしまう、余裕のない時代になりました。作家のピーターソンは暇な時間について、「潜在意識はコンロのようなもので、われわれがぼんやりしている間に考えがとろとろと煮えてくるのである。ニュートンはぶらぶらしている時リンゴが落ちるのを見て、引力を発見するきっかけをつかんだ。ガリレオはゆったりと大きな吊りランプが揺れてるのを見ながら、振り子の運動原理に気がついた。ワットは台所でくつろぎながら、ヤカンの蓋を蒸気が押し上げるのを見て、蒸気機関を思いついたのである。<br />
多くの場合、机に八時間かじりついているよりも、二時間ほどぼんやりしている方が、質量共に勝るアイデアが得られるものだ」と言っています。<br />
キリストは、弟子たちが食事をする時間もなく働いているのをご覧になり『寂しいところへ行って、しばらく休みなさい』と言われました。休む時間、ぼんやりする時間、無為の時間、これらこそ私たちをリラックスさせ、考える力、働く力を養ってくれるのです。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-9947720377980525422016-03-15T16:17:00.001+09:002016-03-15T16:17:56.359+09:00聖書を良き糧として 「葦編三絶」(葦編三たび絶つ)という故事があります。司馬遷の「史記」の孔子出家に出てくる言葉だそうです。孔子に関することですが、孔子が生きていたのは春秋時代で紙はありませんでした。文字は主に竹筒に書かれ、書物となれば、それを「葦」でつづりました。葦はなめし皮のことで、ひものようにした葦で竹筒をつづった形から「冊」という字が生まれたということです。孔子は、その葦が三度もすり切れるほど「書物」を読み。研究したということです。<br />
昔、イスラエルでは遺跡の中から聖書の言葉が書かれた壺などの破片がたくさん出土しています。当時も紙がありませんでしたから、聞いた聖書の言葉を、壺などにとがった木の棒などで彫って記録し、何度も読み返し、覚えていたということです。熱心です。<br />
また、柳宗元という詩人の「汗牛充棟」(牛に汗せしめ、棟に充たしむ)という言葉があります。その蔵書の多さは、建物を埋め尽くすようで、持ち出して運ぶなら、車を引く牛や馬もその重さに汗を流すほどだという意味です。すごい数ですね。しかし、これほど多くの書物を持っていても、いわゆる「積んどく」だけで読まなければ何にもならないのですが。<br />
私たちも「いのちのことば」である聖書を大切にしましょう。生きる糧、日々歩む糧として、毎日、味わいたいですね。聖書は「汗牛充棟」ほどの量ではありません。新聞の朝・夕刊5日分ほどです。まさに「葦編三絶」のように聖書に向かいたいものです。<br />
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masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-66743680982112454032016-03-08T16:52:00.002+09:002016-03-08T16:52:56.582+09:00『まね』をしよう 自分自身を築き上げていく上で大切なことの一つに「まねる」ということがあると思います。まねることと自分んらしく生きるということは矛盾するように思えますが、実は大切なことなんです。<br />
たとえばニュートンは万有引力の法則を「発見した」と言われていますが、正確には「確立した」という方が正しいでしょう。実は、ガリレオが発明した望遠鏡を使って、ガリレオの弟子が18年間天体観測をし、毎日記録をとった結果、天体の運動は円運動ではないことがわかりました。それをもとに、その弟子のケプラーが10年以上観測し、明確な記録をとって「ケプラーの法則」を作りました。そして、さらにそれをもとにしてニュートンが「逆二乗の法則」を発見したということです。受け継ぎ、まねていったんですね。<br />
詩人の室生犀星は、「詩を作るということは、ある意味では盗まなければならない。小説を書くという場合もまた多くを盗まなければならない。巧みに溶かして盗むということは、その詩人なり小説家の頭の溶かし具合、盗むことによって盗んだ十倍も本物を自分から引き出すことである」と言っています。<br />
この二つの話からも、いろんな意味で「まねる」ことが実は自分を生み出していくことだとわかります。クリスチャンという呼び名も、初代教会時代にシリアのアンティオケという町で、「キリストのようなやつ、キリストをまねるやつ」という意味でつけられたあだ名です。よきことをまねることは、よきあなたをつくることですね。masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-29520781698984709172016-03-02T17:23:00.001+09:002016-03-02T17:23:19.155+09:00あなたへ 世界で一番「演説」がうまいのはフランス国民だそうです。理路整然とわかりやすく自分の考えを伝えることは、フランス人にとってはなくてはならない在り方です。その中心にあるのが「書くように話す」ということだそうです。「話し」はときどき脱線し、内容がわからなくなることがあります。本当に伝えたかったことが伝わらなかったと、いうこともよくあることです。書く、すなわち「文書」は推敲し、無駄なことを省き、中心点を明らかにします。つまり、そのようによく準備をして話すことが大切だと言うことですね。<br />
また、わかりやすい文章を書くためにはどうすればよいか、私の友人が次のように言っていました。「わかりやすく、感動を与える文章を書くには、誰かに出す手紙のように書くことだ」と。文章は固くなりやすいので、手紙のように書くと筆者の思いがよく伝わるということでした。<br />
どちらも大切なことですね。わかりやすく話し、わかりやすく文章で伝える。考えてみると聖書はこの両方を兼ね備えたものです。聖書の中にはイエス様やパウロのメッセージが記されています。また、ルカの福音書と使徒の働きは、著者であるルカがテオピロという人に宛てた手紙です。パウロの書簡は、教会や個人に宛てた手紙です。いいかえると、神様から私たちに宛てて書かれた愛の手紙、愛のメッセージなのです。だから聖書は私たちの心に、神様の私たちへの篤い思いが響いてくるのです。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-60749867552987569982016-02-23T15:13:00.001+09:002016-02-23T15:13:24.582+09:00情報に惑わされない土台 新聞というと、毎日あたりまえに家に届き、あたりまえに読むものというものでした。数年前まで、日本が世界で最も新聞購読率を誇り、日本中の警察署の数16000に対して、21000の新聞販売店が存在していました。しかし最近、新しい世代により新聞への考え方の方向が変化し始めています。その原因はインターネットです。<br />
インターネットの拡がりと共に、特に若い人々は「インターネットですべての最新のニュースを知ることができるので、これ以上新聞を読む必要がない」と言います。そして、「インターネット上では、異なるソース(出所)からのたくさんの記事を読むことができるし、その記事を比較することができる。もし、分からないことがあれば、検索して見つけることができる。たった一つの新聞だけ、または、ジャーナリストの見解を信じるのはむしろ危険であり、誤った記事に騙される可能性がいつもある」とさえ言っています。時代の流れの中で、どのメディアの役目も変化して行くのは、むしろ当然と言えるかもしれません。<br />
しかし今は、情報の氾濫の時代です。間違った、あるいは迷わせる情報によって誤った方向に導かれないよう注意しなえればなりません。確かな知識とメディアについての理解を保たなければならないし、必要な時には批判的であらねばなりません。そのためには、一つの基準を持つことが重要です。あらゆる時代を通して、人々の考え方の土台となっている聖書こそ、その基準いなり得るものです。<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-68650446353142297582016-02-16T16:37:00.001+09:002016-02-16T16:37:14.447+09:00小事こそ大切に アメリカの豪商といわれたアスターとある人の会話です。<br />
「あなたの成功は運ですか?」「私より運のいい人はいっぱいいるが、成功者は少ないね」「では勤勉ですか?」「勤勉家は大勢いるが、大富豪になった人は少ない」「では根性ですか?」「世の中には根性のある人は多いが、彼らの中には案外失敗する人が多い」「ではあなたの成功の秘訣は?」「それは小事を大切に扱い、それを効率よく育てて積みあげて、夢の現実に役立てたことだよ」。<br />
また寛政の時代、中村座の初代座長、中村仲蔵は小事を大切にした人でした。無名時代、大勢の大名が将軍の前で並ぶという、セリフもない大勢の中の一人の役をもらいました。その中で仲蔵が一番立派な大名に見えたことから次の大きな役をもらうことができたそうです。そのわけですが、多くの若い役者のたまごたちが衣装をぞんざいに扱う中、仲蔵はいつも大切にしていました。それで彼の大名の衣装がパシッときまっており、一人目立ったから、ということです。<br />
小さな事を大切に、しかもそれを忠実にこなしていくことは本当に大切ですね。小さな事の積み重ねがやがて別の形となって生きてきます。聖書に『小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、小さなことに不忠実な人は、大きいことにも不忠実です』というキリストの言葉があります。小事ができてこそ大事もできるという事ですね。大きな夢に向かって、今ある小事を忠実に行い、積み重ねていきたいですね。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-47208196605029519832016-01-26T16:35:00.001+09:002016-01-26T16:35:53.758+09:00休息もまた良し ガブリエル・マルセルは「マルセルにおける人間の研究」という著書の中で、「あらゆる動物のうちで、考える力を持っているのは人間だけである。ところが、あらゆる動物のうちで考える暇を持たないのも人間だけである」と警告しています。<br />
私たちの日々の生活も「暇」のない生活ではないでしょうか。子どもから大人まで、いろいろなスケジュールに支配され、ちょっと残った時間もテレビなどに取り上げられてしまう、余裕のない時代になりました。作家のピーターソンは暇な時間について、「潜在意識はコンロのようなもので、我々がぼんやりしている間に考えがとろとろと煮えてくるのである。ニュートンはぶらぶらしている時にりんごが落ちるのを見て、引力を発見するきかっけをつかんだ。ガリレオはゆったりと大きな吊りランプが揺れているのを見ながら、振り子の運動原理に気がついた。ワットは台所でくつろぎながら、ヤカンのふたを蒸気が押し上げているのを見て、蒸気機関を思いついたのである。多くの場合、机に八時間かじりついているよりも、二時間ほどぼんやりしている方が、質量共に勝るアイデアが得られるものなのだ」と言っています。<br />
キリストは、弟子たちが食事をする時間もなく働いているのをご覧になり『寂しいところへ行って、しばらく休みなさい』と言われました。休む時間、ぼんやりする時間、無為の時間、これらこそ私たちをリラックスさせ、考える力、働く力を養ってくるれるのです。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-19637211437128847752016-01-19T16:42:00.002+09:002016-01-19T16:42:23.038+09:00もう一つの革命 多くの人の血を流したフランス革命が終わろうとしていた1798年、スイスのルツェルン湖の近くでもう一つの革命が起こりました。教育家ヨハン・ペスタロッチによる愛の革命でした。ペスタロッチはフランス軍に破壊された小さな村の孤児80人の面倒をみることになりました。子供達は下見が湧き、栄養失調や病気になていました。子供達は反抗的で、平気でうそをつき、暴力的でした。愛に飢え、人を信頼できない子供ばかりでした。<br />
ベスタロッチは、この子供達には必要なものは愛であると信じていました。教育の基本的原則は愛であると信じていました。彼はその愛を80人の孤児たちに与えたのです。「春の太陽が冬枯れの地から新しい生命を呼び起こすように、愛が子供達のお状態を変えることを信じました。彼は間違っていませんでした。春の太陽が山の雪を溶かす前に、子供達は見違えるように変わりました。」と言いました。<br />
武力、権力、富による革命ではなく、愛による革命は人を真実に変えます。キリストこそ、その十字架の愛によって私たち一人ひとりに革命を起こし私たちを変えられるのです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』(llコリント5章17節)とあるとおりです。周りや状況は変わらなくとも自分自身が新しくなるのです。ほんとうの豊かないのちに変えられあるのです。それがキリストの十字架の愛による、私たちのいのちの構造革命なのです。masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-31126531546536645502016-01-12T17:03:00.001+09:002016-01-12T17:03:36.920+09:00夕があり朝があった 先週に続き時間に関することをもう一つ。<br />
作家であり動物の達人「ムツゴロウ」こと畑正憲氏の著書の中で、アフリカでの体験を読んだことがあります。ある村でムツゴロウさんの歓迎会が行われました。ごちそうは豚の蒸し焼きです。みんなで穴を掘り、焼いた石を敷き詰め、大きな葉っぱで豚を包み、石の上に置いて土で覆う。そしてここからが問題です。美味しい豚の蒸し焼きができあがるまでの、時間にして2〜3時間ほど(ムツゴロウさんはその時時計を持っていなかった)を、村の人々が行ったことは「待つ」ということでした。ただ、焼きあがるのを輪になって待っていたのです。ムツゴロウさんはそに間、何をしたらいいかわからなかったそうです。しかし、できることは「待つ」ことのみです。ムツゴロウさんは、しだいに風の音、日が暮れていく美しい情景、人々の表情、そして焼きあがる豚への期待など、あらためてその時間の大切さに気ついたということです。何もしないで待つ時間をもったいないと考えずに、待つ時間を待つために過ごすことが人間には大切だとムツゴロウさんは教えられた、と言っていました。<br />
旧約聖書の創世記に、『こうして夕があり、朝があった』とあります。朝起き、昼働き、そして夕に休むというリズムは人気には基本的に大切ばリズムです。一つの時間に一つのことをし、基本的なリズムで生活する。私たちも、自分なりの生活リズムを見直し、自分らしく生活したいですね。<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-77166517348419280702016-01-07T15:47:00.001+09:002016-01-07T15:47:35.806+09:00一日一生 2016年がスタートしましたが、「今年こそは、もっと良い年を」と願いつつ新年を迎えられた方が多いのではないでしょうか。また、あれもしよう、これもしてみたい、といろいろな計画を立てられる方もいらっしゃるでしょう。しかし、うまくいく事もあれば、思い通りにいかない事もあります。<br />
明治のキリスト者の代表的人物の一人、内村鑑三が、その著書「一日一生」の中で、次のように言っています。<br />
「一日は、私どもにとりましては短き一生であります。朝生まれ昼働き、夜は復活の希望を抱いて眠りの床に就きます。かくて、私どもには一年に365回の生涯があります。なんと楽しいことではありませんか。神の命令さえ守ればよろしいのであります。世がいかに成り行こうが、人が私どもについてなんと思おうが、これ、私どもの如何ともすることのできないことであります。私どもは、正義をありのまま実行して、他はこれをことごとく神に任すまでであります。幸福なる生涯の秘訣は、単にこの一事にあると思います」と。<br />
私たちの人生には限りがあり、楽しく良い事ばかりではなく、苦労が多く、思いがけないわざわいも襲ってきます。そのような中で、私たちは翻弄されないように生きていく指針、基準が必要です。内村鑑三は、一日一日を、一生のごとく、神と共に始め、働き、休む、この積み重ねが幸いに生きる秘訣だと言います。私たちも、日々、神様と神のことば聖書を指針・基準として進んでいきましょう。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-35823074889261303962015-12-17T14:55:00.002+09:002015-12-17T14:55:31.748+09:00★★★ クリスマス感謝礼拝のご案内 ★★★ 2015年も残すところわずかとなりました。<br />
クリスマスには、ぜひ私たちの教会へお越しください。<br />
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◆2015年12月20にち(日)<br />
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*午前10時45分より :クリスマス感謝礼拝<br />
○クリスマスメッメージ<br />
○聖歌隊賛美<br />
○クリスマス感謝会<br />
・クリスマス劇(成人、子ども合同)<br />
トルストイ作「人は何で生きるのか(小南伸子脚本)<br />
・クリスマスランチ<br />
・その他楽しいプログラム、クリスマスプレゼント<br />
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*午後5時より : クリスマスキャンドルサービス<br />
○燈火の下で<br />
・賛美、聖書朗読、メッセージ、そして祈りのひとときです<br />
・クリスマスケーキ、くじ引きなどがあります<br />
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《交換プレゼント》<br />
子どもたちは午前のクリスマス会で(300円程度)<br />
大人の方々はキャンドルサービスで(500円程度)。<br />
各自ご用意くださいますようお願いいたします。<br />
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『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。<br />
この方こそ、主キリストです。』 (ルカの福音書2章11節)<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-82024014750510690842015-12-17T14:40:00.001+09:002015-12-17T14:40:35.157+09:00積み重ねる強さ 17世紀のフランスにバンズラードという詩人がいました。晩年バンスラードは、人と出会うと必ず「近頃は年をとりましてね」と口癖のように言っていました。しかし相手が、「私も同様に年をとりましたよ」などと挨拶を返されたりすると、たちまちご機嫌ななめになったそうです。「年をとりましてね」という詩人の言葉の中には、「いや、そんなことはありませんよ。とてもお元気でお若く見えます」という言われたい気持ちが入っていたのでした。「もう年だから」という言葉の裏には、本当は若く見られたいし、自分でもまだ若いと思っていたいという心があるわけです。<br />
聖書に、『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています』とあります。確かに私たちの体力や記憶力などは衰えていくでしょう。しかし、長年積み重ねられた「経験」は大きな力です。日々、様々な経験を重ね、私たちの内面は新しくされています。新しいとは時間的なことではなく、経験を積むことによって人格的に厚みを増し、日々成長していくことです。<br />
私たちは、認めるべきところは認めることが大切ですね。認めないと辛いししんどいです。弱さを認めるなら、強さが見えてきます。弱さに目がいき、強さや良い点が見えなくなってしまうからです。今でも人生を送ってきた経験、その中から得た知恵や経験則は他に代え難いものです。日々新たにされる自分に目を向けましょう。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-15592482151040279582015-12-10T17:06:00.001+09:002015-12-10T17:06:37.696+09:00心の視力回復 CMで、「お金で買えない価値がある。買えるものはマスターカードで」というコピーがありました。逆説的に「お金があれば何でも手に入る。思い通り生活できる」という意味があるのではないでしょうか。もちろん、お金そのものを否定しているわけではありません。<br />
ちょっと考えてみると、私たちが生きていくなかで無くてはならないものはお金が入らないものが多いですね。太陽、水(水道代を払っていますが元々はただです)空気・・・・。また、ある方の部屋に次のようにな言葉が額に入れてかかっていたそうです。「お金で何が買えるか。ベット、しかし眠りは買えない。食べ物、しかし食欲は買えない。飾り、しかし美しさは買えない。家、しかし家庭は買えない。薬、しかし健康は買えない。楽しみ、しかし幸福は買えない。セックス、しかし愛は買えない。」ゆっくりと眠れ、何でも美味しく食べることができ、内面から出る美しさを持ち、良き家庭を築き、健康で幸いに、愛を持って生きられたらいうことはないですね。<br />
『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつもでも続くからです。』と聖書にあります。キリストは、私たちに、その見えないものを見せてくださいます。キリストは十字架で私たちに、その見えないものを見せてくださいます。キリストは十字架で私たちの罪のために身代わりとなって、私たちへの愛を明らかにしてくださったのです。そして、キリストにあって、私たちは今まで見えなかった大切なものが見えてくるのです。心の視力が回復するのです。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-22205917304875591322015-12-03T14:35:00.002+09:002015-12-03T14:35:30.380+09:00良い汗、流していますか いろんな場面で、汗をかきますね。汗といえば、大きく分けると三種類あるそうです。<br />
一つは温熱性発汗で、気温が上がったり、スポーツをしたり、体を動かしたりした時に、体温をコントロールするための発汗です。二つ目は精神性発汗で、緊張した時、ドキドキした時、仕事などで慌てている時、何か恥ずかしいと思った時、電車で足を踏まれて我慢している時などで、体温調整に関係なく精神的興奮や緊張によって発汗するものです。三つ目の味覚性発汗は、カレーや唐辛子などの辛いものを食べた時に出る汗です。<br />
一般的に、温熱性発汗は良い汗と言われています。99%が水分でサラサラの汗です。適度にこの汗をかくことは健康にいいそうです。<br />
歩いたりスポーツしたり、また半身浴もいいと言われています。現在、多くのストレスなどで心身共に疲れることが多いです。こんなときに、少し良い汗を流してみるのもいいことです。<br />
人生において、良い汗を流したいですね。今していることを少しパワーアップさせてみる。仕事でも趣味でも、新しいことに目を向けてやってみる。今まで、自分ではできないとあきらめていたことに挑戦してみる。いろいろ考えられますね。聖書には、私たい一人ひとりには素晴らしい賜物(才能)があると言っています。自分で気づいていないだけかもしれません。人生で良い汗を流そうとするなら、新しい自分を発見するかもしれませんね。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-41484927258656071672015-11-26T15:24:00.001+09:002015-11-26T15:24:27.381+09:00信頼 元アナウンサーでテレビ番組の司会者をしている楠田枝里子さん。彼女は、とてもユニークな体験をしています。それは中学生の時です。<br />
その体験をコラムに書いています。<br />
<新しい数学の先生が赴任してきた。最初の時間。先生はまったく授業しない。生徒が「もうけたな」と喜ぶ。次の授業も同じだ。先生は平気で椅子に座っているだけ。こうなると生徒のほうが心配になる。先生は「気になるなら、自分たちでやりなさい。数学は自分で開拓する世界だ」と平然としている。仕方がない。はじめは、できる子が黒板で問題を解きはじめた。それにつられ、ほかの子もすすんで勉強を始めた>という内容です。<br />
この経験で、楠田さんは受け身では味わえない数学の面白さを知ったということです。<br />
数学の授業をしない先生と出会って、数学が好きになったという話しです。この先生の方法には賛否両論があるかと思いますが、やはり、生徒たちに数学に対する前向きな気持ちをもたせたという点では大成功です。<br />
この先生、もし生徒が全く数学の勉強をせず、その時間が遊びに時間になっていたらどうしたんだろう、と考えました。しかし、こう考えることが後ろ向きだと気づきました。その時はその時です。この先生は「生徒を信頼している」ということです。信頼してくれているとわかるなら、人は行動を起こします。聖書がいうように『互いに信頼』して歩むことはほんとうに大切です。<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-32348625253644022052015-11-21T18:46:00.001+09:002015-11-21T18:46:25.527+09:00剣に勝つもの 「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。ペンとは、もちろん「言葉」ということです。言葉は力があり強いです。人を立たせたり、落ち込ませたりします。喜ばせたり、怒らせたり、感動させたり、気分を悪くさせたり・・・・。<br />
ある方が次のように書いていました。「相手に必ず聞いてもらえる。そんな話しがある。万国共通とも言える。昔も今も変わらない。女も男も同じだ。年寄りも若者も違いはない。それは、なんの話しか?もちろん、その答えは”お世辞”だ」と。ナポレオンには、いろいろな逸話がありますが、その中でとてもユニークな話しがあります。ナポレオンは、お世辞が大嫌いだったそうです。お世辞を言う人の話しは聞くこともしなかったと言います。皮肉屋の部下の一人が、そのナポレオンにお世辞を言いました。「陛下には、いつも感心させられております。陛下ほど、お世辞嫌いの人は、見たことも聞いたこともございません。」ナポレオンは、目を細め、満足そうに何度もうなずいたということです。<br />
ナポレオンでも乗せられてしまう「お世辞」であれ、何であれ、やはり言葉には力がありますね。ですから、私たちは言葉を大切に使いたいものです。聖書には、『親切な言葉は人を喜ばす』『あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい』とあります。親切とは、相手の必要を満たすという意味があります。<br />
単なるお世辞ではなく、親切なことはを使いたいですね。<br />
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<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-46094442036640725192015-11-10T18:14:00.001+09:002015-11-10T18:14:07.004+09:00学問のすすめの原点 明治の代表的啓蒙思想家といえば、慶應義塾大学の創始者でもある福沢諭吉です。彼は、1834年現在の大分県の下級武士の次男として生まれました。大阪にあった緒方洪庵の適塾で学び、江戸に出て蘭学塾を開きました。これが慶應義塾の前身です。1860年、幕府のアメリカ派遣使節として咸臨丸で渡米。その後3度の渡欧・渡米で西洋の知識を学び、日本での紹介に努めました。<br />
福沢諭吉の代表作である「学問のすすめ」と、その中の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」という名言はあまりにも有名です。しかし、この名言は「言えり」とあるように福沢諭吉のことばではなく引用です。それは、聖書を土台として作られたアメリカの独立宣言からの引用なのです。すなわち、聖書の人生観なのです。<br />
彼は、「創造主である神は、人間を平等に造られた」という聖書の人間観・人生観をわかりやすく日本語にしたのです。<br />
福沢諭吉は、前述したように士・農・工・商という身分制度の中で生まれ育ちました。彼は、学問によりその身分制度を粉砕しようとしたのです。その学問とは、「難しい文字を覚えたり、解釈するような実のないものではなく、実際に生きていく上で必要なことを学こと」だと説いています。身分制度によって人生が決められるのではなく、人間として道を学ぶことによって豊かに生きようということですね。そしてそれは、聖書の人生間なのです。聖書を学ぶことは、私たちの人生の道を学ぶことであり、生きることなのです。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-45395745756269294912015-11-04T22:21:00.004+09:002015-11-04T22:28:56.286+09:00◆◆◆ ご案内 ◆◆◆<br />
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<span style="font-size: x-large;"> </span><span style="font-size: large;"> </span><span style="font-size: medium;"><b> </b> 〜 福音落語と讚美の会 〜</span><br />
<span style="font-size: medium;"><span style="font-size: medium;"><br /></span>
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<span style="font-size: medium;"><br /></span>
<span style="font-size: medium;">▪️日時 2015年11月8日(日)</span></span><br />
<span style="font-size: medium;"> 午後3時〜4時30分</span><br />
<span style="font-size: medium;"> (開場2時30分)</span><br />
<span style="font-size: medium;"><span style="font-size: medium;"><br /></span>
<span style="font-size: medium;"><br /></span>
<span style="font-size: medium;">▪️会場 有馬富士公園 </span></span><br />
<span style="font-size: medium;"> パークセンター 多目的ホール</span><br />
<span style="font-size: medium;"> 三田市福島 1091-2</span><br />
<span style="font-size: medium;"><span style="font-size: medium;"><br /></span>
</span><br />
<span style="font-size: medium;">▪️出演 </span><br />
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<span style="font-size: medium;">露のききょう :</span>西宮市出身の落語家 女優 露の五郎兵衛の長女<br />
<span style="font-size: medium;"><br /></span>
<span style="font-size: medium;">菅原早樹 :</span>福音讚美家 露の五郎兵衛の次女<br />
<span style="font-size: medium;"><br /><br />
<span style="font-size: medium;">【問い合わせ】</span></span><br />
<span style="font-size: medium;"><span style="font-size: medium;"><br /></span>
<span style="font-size: medium;">北摂恵みバプテスト教会 (</span></span><span style="font-size: medium;">℡ : 079-564-2175)</span><br />
<span style="font-size: medium;"><span style="font-size: medium;"><br /></span><br />
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<span style="font-size: medium;">入場無料です。</span></span><br />
<span style="font-size: medium;">お気軽にお越しください。</span><br />
<b><br /></b>masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-34772644348017723602015-11-04T22:06:00.001+09:002015-11-04T22:06:31.982+09:00人、その友のために ノーベル賞のノーベルは少年時代、お父さんから「人々の役に立つ人間になれ」と言われ、それを目標としました。勉強も頑張りました。成績は常に、判を押したように二番でした。一番は、ノーベルの友だちでボギーという少年でした。あるとき、そのボギーが病気になり長期欠席をしました。そしてボギーの病気も治り久しぶりに登校すると、ちょうどその日にテストが行われました。今度のテストはノーベルが一番になると誰もが思いました。しかし、一番はボギーでした。なぜなら、ノーベルがその日あった授業ノートを、毎日欠かさずボギーの家へ届けていたからでした。「学校で勉強したことをノートしてボギーに届けることが友情の証である」と考えたからでした。<br />
競争することは必ずしも悪いことではないと思います。しかし、強いものが勝つという原理だけでは殺伐とした社会になってしまいます。私たちは、互いに競争したり、助け合ったりしながら共に歩んでいくことが大切ではないでしょうか。キリストは『人がその友のためにいのちを捨てる。これより大きな愛はなり』と言われましたが、競争原理の中では、そのいのちを捨てるべき友さえいないということもあるでしょう。<br />
さてキリストは、そのことば通り十字架でいのちを捨てられました。あなたのためです。それは、あなたを友と考えておられるからなのです。あなたは、キリストが友と認めておられる存在なのです。すばらしいですね。また私たちも、誰かの友になりたいですね。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-342638932176365083.post-22850641528598276142015-10-28T21:22:00.001+09:002015-10-28T21:22:10.460+09:00外にでるものも大切に 人を外見で判断してはいけないととはよく言われることですね。私も、「へえ、あの人、そんな偉い人やったん」と思ったことはたびたびあります。<br />
鎌倉時代の執権、北条泰時の弟である北条重時が、鎌倉武士のたしなみにかんして、「人前に出る時は、念入りに鏡を見て、服装その他に乱れがないか、着こなしはよいか、よくよく改めなければならぬ。いったん人中に出たら、衣服をつくろったり、気を抜いてはいけな。人に笑われたち、軽く見られないためである。内にある時、身を装うのにどれだけ手間暇かけてもよいというのはそのためである」と書いているそうです。鎌倉時代の武士も出かける前は大変だったようですね。<br />
もちろん、自分を飾って自分を自分でないように装ったり、他人を見下げたりするのは別ですが、私たちも外見を装うことは大事なことではないでしょうか。ただ服装ということだけではなく、言葉使いや、ちょっとした行動などです。聖書においても、俗悪な言葉や下品な冗談を避けること、塩味のきいた言葉や親切な言葉を使うことを勧めています。また「あいさつ」も大切だと言っています。<br />
私たちは、自分の内にあるちょっとした思いやりで相手に「いい気分」を提供できます。それはまた他の人から自分に返ってくるものです。<br />
ですから単に外見を良く見せようということではなく、良き外見を通して互いにちょっとした遊びを分えればすばらしいですね。<br />
<br />masutami yasudahttp://www.blogger.com/profile/12831052987188307067noreply@blogger.com0