清々しい生き方
江戸時代、明治維新まで140年間続いた懐徳堂という学問所が大阪にありました。そこで教育に尽力した一人に、中井履軒という人がいました。
ある日、履軒が骨董屋で古い刀の鍔(つば)をみつけました。気に入ったので値段も聞かず主人に四分銀をわたすと、「この品はそんなに高いものではありません。こんなにいただくわけにはいきません」と主人。「いやいや、これは四分銀の価値がある」と言って無理に押しつけて帰りました。するとこの鍔をみた門人たちが、「これはいい。すばらしい。ゆずって欲しい」としきりに言うので、履軒は一人の門人にゆずりました。四分銀だという履軒に門人は、「八分銀の価値がある」と無理に八分銀をわたしたました。
私なら「儲かった」と喜ぶのですが、履軒は骨董屋に行き差額の四分銀を、ことわる主人に無理にわたしました。また主人は、履軒の家を探し、せめてものお礼にと鯛などの鮮魚をだまって置いていったということです。
人間、自分が受けること、自分が利益になることを求める中で、履軒、門人、そして骨董屋の主人とも、「ゆずる、与える、分かち合う」という、潔さ、また清々しさと感じますね。キリストは『与えるは受けるより幸いである』と言われましたが、それは自分だけがということではなく、周りの人々に関心を持ち、自分にできることを、自分にあるものを分かち合っていくという心なんですね。