「存在」と「安心」
公園で小さな子どもたちが遊んでいます。ベンチにはお母さんたちが座って話しをしています。子どもたちは、ときどきお母さんの方を見て、また一心に遊びます。お母さんがいることを確かめているんですね。お母さんが見えないと、その子どもは遊びを止めお母さんを捜します。泣き出します。お母さんの姿を見つけると、また遊びます。
自分を包んでいるお母さんの「存在」が子どもたちに安心を与えているんです。母の存在と愛の中で安心して遊んでいられるわけです。
母と子の姿は一つの例ですが、このようなことは私たちが生きてゆくうえで大切なことです。スポーツ選手にとって、監督やコーチが自分を包んでくれる、自分を任すことのできる「存在」ならば、選手たちは「安心」して練習に打ち込むことのできる「存在」ばらば、選手たちは「安心」して練習に打ち込むことができるでしょう。会社での仕事における上司と部下の関係もそうでしょう。あるプロジェクトですべての責任をとり、部下の能力を活かしてくれる上司という「存在」がいたなら、部下たちは「安心」して精一杯動くことができるでしょう。
実は、どのようなときも私たちを愛しておられる父なる神がおられます。聖書は、私たちすべての人間にとって、父なる神の「存在」と「愛」を知らせています。神は、イエス・キリストの十字架の死を通して、私たちへの愛を明らかにし、ありのままの私たちの存在をその愛で包んでおられることを示しておられます。この神の「存在」こそ私たちの人生に「安心」を与えるものなのです。