聖書を良き糧として
「葦編三絶」(葦編三たび絶つ)という故事があります。司馬遷の「史記」の孔子出家に出てくる言葉だそうです。孔子に関することですが、孔子が生きていたのは春秋時代で紙はありませんでした。文字は主に竹筒に書かれ、書物となれば、それを「葦」でつづりました。葦はなめし皮のことで、ひものようにした葦で竹筒をつづった形から「冊」という字が生まれたということです。孔子は、その葦が三度もすり切れるほど「書物」を読み。研究したということです。
昔、イスラエルでは遺跡の中から聖書の言葉が書かれた壺などの破片がたくさん出土しています。当時も紙がありませんでしたから、聞いた聖書の言葉を、壺などにとがった木の棒などで彫って記録し、何度も読み返し、覚えていたということです。熱心です。
また、柳宗元という詩人の「汗牛充棟」(牛に汗せしめ、棟に充たしむ)という言葉があります。その蔵書の多さは、建物を埋め尽くすようで、持ち出して運ぶなら、車を引く牛や馬もその重さに汗を流すほどだという意味です。すごい数ですね。しかし、これほど多くの書物を持っていても、いわゆる「積んどく」だけで読まなければ何にもならないのですが。
私たちも「いのちのことば」である聖書を大切にしましょう。生きる糧、日々歩む糧として、毎日、味わいたいですね。聖書は「汗牛充棟」ほどの量ではありません。新聞の朝・夕刊5日分ほどです。まさに「葦編三絶」のように聖書に向かいたいものです。
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