いのちの糧は?
ディフォーの「ロビンソン漂流記」は有名は小説家ですが、ロビンソン・クルーソーにはモデルとなる人物がいました。一人のスコットランド人、アレクサンダー・セルカークという男です。彼は今から300年前、南太平洋の無人島で約4年半もの間生き延び、救出されました。ロンドンでその体験談を聞いた一人がディフォーでした。そして小説にしました。その中で、ディフォーは主人公ロビンソンに次のように言わせています。「ここ無人島では、私に使えるだけの量のものしか価値がなかった。私が食べていくのに十分なだけの食糧とその他の需要を満たすための材料以外は、私にとって意味を持たなかった。
私に食べきれる以上の肉が手に入れば、犬か野獣に食わせるほかなかった。同様に、私が切り倒した木は、地面に朽ちかけていき、たきぎにしか使えず、たきぎがいるのは、料理をするときだけだった。一口に言えば、この世にあるどんなものでも、われわれがそれを使える範囲でした、われわれにとって価値がないことを知った」と。
ディフォーが言いたかったことは、「私たちにとって、生きていく上で必要なものはそう多くない」ということです。私たちが求めているのは、もしかしたら必要ないものの周りにある装飾品かもしれません。私たちにとって最も必要なものといえば、いのちですね。いのちとは、心も含め全人的な意味です。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』とキリストは言われました。私たちの「いのち」の糧こそ、神のことば聖書なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム