誤解を祝福に
キリストほど、多くの良きことをされたにもかかわらず、誤解された存在はめずらしいでしょう。キリストは当時、悪人の代表のように言われていた収税人や人々から嫌われていた人たちと一緒に食事をされました。それは、キリストがどのような人をも受け入れられるすばらしい方だったからです。すると、「キリストが正しいなら、なぜそのような人たちと食事までするのですか」と宗教家たちは批判しました。そして、ついにキリストは十字架にかけられ「犯罪人」として処刑されました。大きな誤解をうけたのです。 しかし、その十字架の死には、大きな意味がありました。罪のゆえに神がわからず、自分の存在のすばらしさを知らず、永遠のさばきに向かっている人間を救うために十字架で死なれたのです。私たちが受けるべき罪のさばきを代わりに受けてくださったのです。ここに、私たち人間に対するキリストの愛が明確に示されているのです。 アメリカの南北戦争のとき、リンカーンは敵の南軍に対して理解ある優しい言葉を使っていました。それに対して憤慨した北軍の将軍は「なぜ敵に対してそんなに優しくするのですか」と詰問しました。リンカーンは「私が自分の敵を友に変えてしまうなら、そのとき私は敵を滅ぼしたことにはならないでしょうか」と答えたそうです。愛は人をかえます。豊かな存在に変えます。キリストはご自身のいのちを捨てるという愛で私たちを変えようとされているのです。誤解を受けられたキリストは、その誤解さえも私たちの祝福に変えられたのです。