恵みの風

“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”(イエス・キリスト) 兵庫県三田市 北摂恵みバプテスト教会よりお届けします。

2016年5月12日木曜日

あなたを知っておられる神

 あるご老人は、その町にある小さなお医者さんへ行くのが好きだそうです。そこの看護婦さんが自分を呼ぶ時に「姓名」で呼んでくれるからだそうです。いつもはどこでも「おばあちゃん」と呼ばれます。「おばあちゃん」と呼ばれても不満はないのですが、姓名できちんとと呼ばれると「本当の自分」を呼んでもらっているようで好きだそうです。私の場合は、夫であり、父であり、牧師であり、おっちゃんですからいろんな呼び方で呼ばれます。しかし、これら全てを含んでいるのはやはり「保田益民」です。
 聖書のイザヤ書に、『この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名を持って呼ばれる』とあります。神は私たちの名を呼ばれるお方です。私たち一人ひとり漏れることなく知っておられるのです。またヨハネの福音書には、『神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』とあります。個人、一人ひとりを愛しておられる神さまです。そして、私たちの髪の毛の数さえご存知なのです。さらに、神が持っておられる『いのちの書』に名前を記してくださるとあります。
 すなわち神は、私たちを断片的にではなく、一面だけではなく、すべてを知ってくださっているということです。機械的ではなく、愛と恵みを持って私たちを呼んでくださる方がおられるのです。これは、私たちにとって慰めであり励ましではないでしょうか。


2016年4月26日火曜日

★★★ 母の日感謝礼拝のご案内 ★★★





 日頃のお母様方の労苦に感謝し、私たちの教会では母の日感謝礼拝を行います。
新緑の美しいこの時期、自然に囲まれた教会で、ゆったりとした日曜日をお過ごし下さい。
 心よりお待ちしております。


 


【日時】 2016年5月8日(日) 午前10時45分より

【場所】 北摂恵みバプテスト教会
         三田市三輪1275-25  ( ☎︎ 079-564-217)

 【内容】 *母の日メッセージ
      *聖歌隊讃美
      *母の日プレゼント
      *お茶菓子
 




託児(ナースリー)がございます。
駐車場もございます。
10時30分に JR三田駅北側ロータリーに送迎車が行きます。
ご利用ください。




2016年4月18日月曜日

新らしい発想

 ある大学で、キャンパスにきれいに手入れされている緑鮮やかな芝生が植えられていました。しかし問題が一つありました。それは、その芝生が教室のある校舎と食堂のある
建物との間に植えられていたということです。何が問題なのでしょうか。それは、食堂への道を通るよりも、芝生の上を通るな断然近道だということです。言うまでもなく、学生たちはその芝生の上を歩きます。注意してもなかなか聞きません。「芝生立ち入り禁止」「芝生歩行禁止」などの看板も立ててました。芝生の回りを柵で囲んでみました。しかし、学生たちには何の意味もないことでした。看板を無視し、柵を跳び越え芝生を通ります。
係の者が思いあまって学長に相談しました。すると学長は、「それは簡単なことだ。芝生の中に道を作ったらすむことだよ。」と答えました。さっそく、きれいな道を芝生の中につくりました。すぐに、看板も柵も必要なくなり、係の者のストレスも無くなりました。
 このことから、「発想の転換の大切さ」を学ぶことができます。「美しい芝生を守るために、学生を芝生に入れない方法は?」から、「芝生を美しく保ちながら芝生広場を通らせるには?」に発想を変えたとき、問題は見事に解決しました。私たちも、問題に対して一方向からではなく、いろんな角度から対処法を考えたいですね。また、学生を変えるのは難しいが、芝生に道を造るのはやりやすいことでした。聖書は、私たちに神様の発想を教えてくれます。私たちには無い、しかも新らしい命の発想です。

2016年4月14日木曜日

考え方に基準を

 新聞というと、毎日あたりまえに家に届き、あたりまえに読むものというものでした。実際、日本が世界で最も高い新聞購読率を誇り、日本中の警察署の数16000に対して、21000の新聞販売店が存在しています。しかし最近、新しい世代により新聞に関する考え方の方向が変化し始めています。その原因はインターネネットです。
 インターネットの拡がりと共に、特に若い人々は「インターネットで全ての最新のニュースを知ることができるので、これ以上新聞を読む理由がない」と言います。そして、「インターネット上では、異なるソース(出所)からのたくさんの記事を読むことができるし、その記事を比較することができる。もし、わからないことがあれば、検索して見つけることができる。たった一つの新聞だけで、あるいはジャーナリストの見解を信じるのはむしろ危険であり、誤った記事に騙される可能性がいつもある」とさえ言っています。時代の流れの中で、どのメディアの役目も変化して行くのは、むしろ当然と言えるかもしれません。
 しかし今は、情報の氾濫の時代です。間違った、あるいは迷わせる情報によって誤った方向に導かれないよう注意しなければなりません。確かな知識とメディアについての理解を保たなければならないし、必要な時には批判的であらねばなりません。そのためには、一つの基準を持つことが重要です。あらゆる時代を通して、人々の考え方の土台となっている聖書こそ、その基準になり得るものです。

2016年3月29日火曜日

笑顔パワー

 聖書の箴言に、『一切れの乾いたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家にまさる』とあります。平和とは「関係が良い」ことを言います。人と人とを結ぶ帯は愛だと聖書は教えていますが、その愛の具体的表現の一つ、そして最も簡単に誰にでもできるものが「笑顔」ではないでしょうか。
 笑顔に関して色んなことが言われています。アメリカの社会教育家マーデン博士は、「世の中で最高のケチは、何と言っても、にこやかな笑顔と挨拶を出し惜しむことだ。ちょっと目元の筋肉を動かし、ほんの一言二言話すだけで、人に幸福を与えることができるのに、それさいしない人がいる」と言いました。イギリスのシドニー•スミス卿は次のように言いました。「微笑むで人を喜ばせよ。一日一人を喜ばせるという最低限のことでも、10年つづけれ、3650人に喜こびを与えたことになる」と。また、あるデバートの事務所には、「笑いの哲学。それは元手がかからない、利益は計り知れない。与えても減らず、与えられた人は和む。富豪も笑顔なしには豊かさが生まれない。貧しくて笑顔があれば豊かになる。笑顔は、家庭に幸せを、商売に善意を運ぶ。そして、笑顔は友情の合言葉。疲れた人には心の安らぎ、失意の人には光明、悲しむ人には太陽」と書かれています。
 私たちも、主キリストに見習い笑顔を持って互いに平和を生み出していきたいですね。主は、きっと私たちの笑顔をお用いくださることでしょう。

2016年3月23日水曜日

休息は活力

 ガブリエル・マルセルは「マルセルにおける人間の研究」という著書の中で、「あらゆる動物のうちで、考える力を持っているのは人間だけである。ところが、あらゆる動物のうちで考える暇を持たないのも人間だけである」と警告しています。
 私たちの日々の生活も「暇」のない生活ではないでしょうか。子どもから大人まで、いろいろなスケジュールに支配され、ちょっと残った時間もテレビなどに取り上げされてしまう、余裕のない時代になりました。作家のピーターソンは暇な時間について、「潜在意識はコンロのようなもので、われわれがぼんやりしている間に考えがとろとろと煮えてくるのである。ニュートンはぶらぶらしている時リンゴが落ちるのを見て、引力を発見するきっかけをつかんだ。ガリレオはゆったりと大きな吊りランプが揺れてるのを見ながら、振り子の運動原理に気がついた。ワットは台所でくつろぎながら、ヤカンの蓋を蒸気が押し上げるのを見て、蒸気機関を思いついたのである。
多くの場合、机に八時間かじりついているよりも、二時間ほどぼんやりしている方が、質量共に勝るアイデアが得られるものだ」と言っています。
 キリストは、弟子たちが食事をする時間もなく働いているのをご覧になり『寂しいところへ行って、しばらく休みなさい』と言われました。休む時間、ぼんやりする時間、無為の時間、これらこそ私たちをリラックスさせ、考える力、働く力を養ってくれるのです。

2016年3月15日火曜日

聖書を良き糧として

 「葦編三絶」(葦編三たび絶つ)という故事があります。司馬遷の「史記」の孔子出家に出てくる言葉だそうです。孔子に関することですが、孔子が生きていたのは春秋時代で紙はありませんでした。文字は主に竹筒に書かれ、書物となれば、それを「葦」でつづりました。葦はなめし皮のことで、ひものようにした葦で竹筒をつづった形から「冊」という字が生まれたということです。孔子は、その葦が三度もすり切れるほど「書物」を読み。研究したということです。
 昔、イスラエルでは遺跡の中から聖書の言葉が書かれた壺などの破片がたくさん出土しています。当時も紙がありませんでしたから、聞いた聖書の言葉を、壺などにとがった木の棒などで彫って記録し、何度も読み返し、覚えていたということです。熱心です。
 また、柳宗元という詩人の「汗牛充棟」(牛に汗せしめ、棟に充たしむ)という言葉があります。その蔵書の多さは、建物を埋め尽くすようで、持ち出して運ぶなら、車を引く牛や馬もその重さに汗を流すほどだという意味です。すごい数ですね。しかし、これほど多くの書物を持っていても、いわゆる「積んどく」だけで読まなければ何にもならないのですが。
 私たちも「いのちのことば」である聖書を大切にしましょう。生きる糧、日々歩む糧として、毎日、味わいたいですね。聖書は「汗牛充棟」ほどの量ではありません。新聞の朝・夕刊5日分ほどです。まさに「葦編三絶」のように聖書に向かいたいものです。