物事の時を知る
アジアの民話です。
いつもつも道ばたに座っている老人がいた。来る日も来る日も、村外れの大きな木の下に座っている。「いったい何をしているんだろう」と、この奇妙な老人の行動は、いつしか村人たちの噂となっていった。ある日、好奇心の強い村人が、老人の様子を一日中観察してみた。すると、老人はただ黙して座っているわけではないようだ。一日に何回か、思い出したように、手を打ち鳴らすのである。老人は、それを毎日毎日、飽きもせず繰り返している。
「あなたは、毎日ここに座って手を打っているようですが、いったい何をしているのですか」と村人が尋ねた。老人は答えた。「この木になっている実が落ちるのを待っているんじゃよ」「はあ?それなら木に登るなり、棒で取るなりすればいいんじゃないですか!」と村人。
「いやいや」と老人はさらに答えた。「機が熟す、ということわざもあるようにな、あの実もやがて熟すれば落ちるときが来る。それが自然の習わしじゃから、こうして手を打って、それが落ちる実だけをいただこうと思っとるのじゃ」と。
この老人、自然の仕組みにさからわず、忍耐を持って待っているわけです。忍耐というより、待つ楽しささえ感じます。とかく私たちは「早く早く」となってしまいがちですが、例えば、みかんもイチゴも熟する前にはスッパイですね。聖書は『すべてに時がある』と教えています。時を待ち、時を逃さず歩みたいですね。
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