大切なものを犠牲に
ひとりの少年が亡くなった大好きなお爺さんにもらった大切な模型を失いました。ある日、お店に自分の船の模型が売られていました。少年は主人に言いましたが、取り合ってくれません。それで少年は、一生懸命アルバイトをしてその模型を買い取りました。
このように、私たちは自分にとって大切なものに対しては大きな犠牲、時間、労力、お金・・・を払っても惜しくはありません。それに対する大切さの度合いは、それに払うものの大きさで現されます。『私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。』(イザヤ43章4節)と言われた神は、『私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます』(ローマ5章8節)と、その愛を身代わりの死という形で現されました。私たち一人ひとりが大切であり愛している証拠としてキリストが犠牲となられたのです。
私たちは自分の罪(聖書で罪とは的外れという意味です)の故にさばきを受けなければなりません。そして、自分らしさを失い人生に迷っています。キリストはその罪を負って、私たちの身代わりに死というさばきを受けてくださり、私たちに罪の解決を備えられました。神は、私たちに一番大切なものをお与えになられました。すなわちキリストのいのちを犠牲にしてくださったのです。これにより、私たち一人ひとりが神にとって本当に大切なものだと現しておられるのです。この神の愛を受け入れ、キリストを信じて豊かにあゆんでいきまs
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