どのようなあなたも
ある人が事件を起こして刑務所に入りました。そして、初めて面会が許された日、母親が刑務所に面会に来ました。「お母さん、ごめんなさい」と母親がこんな場所に来ることになった自分の非を頭を下げて謝りました。すると、母親は「何言ってるの。あなたが刑務所に入ってくれたおかげで、私などにはまず見ることも出来ない刑務所の中まで見られたのよ」と言いました。
その人は、その母親のことばに救われました。その時、ほんとうに立ち直ろうと心底思ったそうです。もしこの時、母親が「お前はなんてバカなことをしてくれたんだ。親としてこんな所に来なくてはならないほど不幸なことはありません」と怒ったり、泣き叫んでいれば、自分はきっと立ち直れなかっただろう、と言っていたそうです。
人間というものは、自分という存在をあるがまま受け入れてもらいたいんです。その時の自分がどんな立場にいようが、どんな地位にあろうが関係ありません。あるがままの自分です。頑張っている自分も、疲れている自分も、喜んでいる自分、怒っている自分、感謝いている自分、イライラしている自分、成功した自分、失敗した自分・・・。
いろんな自分がありますが、「ああ、あなたでよかったね」と受け入れてもらいたいんですね。キリストは、『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』と言われました。それは、そのまあのあなた、あるがままのあなたを受け入れてくださるキリストの愛なのです。
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