いのちの書
聖書はキリスト教の教典といわれていますが、いったい何が書かれているんでしょうか。良い教えでしょうか。宗教的戒めでしょうか。
「罪と罰」や「カラマゾフの兄弟」なでの著者、ドストエフスキーがシベリヤの収容所に入れられたとき、看守が「しんぼうしなよ。キリストも苦しまれたんだからな」と落ち込んでいるドフトエフスキーを励まし、一冊の新約聖書を渡しました。ドフトエフスキーは、収容所の中で、その新約聖書をむさぼるように読みました。そして、キリストというお方を知ったのです。彼は、聖書を通して、キリストというお方、キリストの生き方、苦しみ、忍耐、そして愛を知ったのです。ドフトエフスキーは、聖書について「万が一、これがウソであっても、わたしは、この心を打つ真実なもの、この聖書と一緒に生きそして死にたい」と語りました。
聖書の中心はキリストご自身です。キリストについて書かれたものなのです。単なる教えや宗教的な戒めなどではないのです。誤解され憎まれ、嘘つき呼ばわりされ、最後は十字架につけられ、復活されたキリストです。しかも自分に敵対した人々をも愛されたキリストです。ドフトエフスキーは、このキリストを知ったのです。
聖書はまた、キリストと出会った人が、友人やいろんな町の人々へ宛てた手紙なのです。すなわち、キリストとキリストを信頼して生きた人々の証しなんです。ですから、聖書からは、教えではなく生きるためのいのちを得ることが出来るのです。
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